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LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅 武櫓倶

戦國をめぐるウォーク&サイクリングツアー

戦國をめぐるツアー「観音寺城と安土城天守」     /企画:街の駅「戦國丸」

日時:2008/4/20(日)彦根~五箇荘:約16km
街の駅「戦國丸」は戦國をめぐるウォーク&サイクリングツアーを開催。
2008年春の第一回目は全国でも有数の規模を誇る佐々木(六角)氏の居城観音寺城(石寺の日吉大社から登ります)と安土城天守「信長の館」に行きました。集合解散は街の駅「戦國丸」、訪問地までの交通は近江鉄道サイクルトレインと自転車と徒歩で、環境と人にやさしいツアーとなりました。

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関が原の合戦のあと、敗走する島津隊を石部まで安全に帰還できるように道案内をしたといわれる中仙道高宮宿「旧小林新六郎屋敷」の門に掲げられた「揚げ羽蝶紋」。織田家に通じる名門の家紋です。

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中仙道豊郷の近江商人屋敷「又十郎屋敷」にある島左近が架けたといわれる「百間橋」の欄干(本物)

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         「百間橋」の写真パネル、橋の向こうに今も変わらない佐和山城祉

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    近江商人屋敷「又十郎屋敷」の庭園の巨石はなんと!佐和山から運んだと説明された。

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   地域の歴史的なお宝がいっぱい!何気なく寄った処が実はすごいところでした♪
    ちなみに入場料200円お茶のサービス付きでした、館長さんありがとう!


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          全国でも有数の規模を誇る佐々木(六角)氏の居城観音寺城

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築城建武二(1335)年、近江源氏の佐々木六角の居城があった標高433メートルの繖山(きぬがさやま)にある観音寺城は、織田信長に占領されるまで栄華を誇った山城として有名ですが、近くに暮らしながら一度も登った事がありませんでした。






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戦国商店街の研修サイクリングの様相でもありました。それにしてもシェー!は古すぎるやろ

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安土城と尾根続きにある繖(きぬがさ)山にそびえ威容を誇った。日本最大級で家臣の屋敷も配置された最も完成された山城であるとともに、由緒ある寺院、観音正寺の建立された信仰の山でもあります。

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 山頂付近から西南の京の都を望む!春霞ながら400Mの山城ならではの絶景です♪

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数多く残る石垣ですが、本丸大井戸へ向かう虎口の石垣は高さは3mほどもあり往時の巨城の一端が見られます。

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実は、観音寺、観音寺城、観音正寺とお寺が上にあったり、お城ができたおかげで山麓に下りてきたり、また上がって、それは現在の位置ですが、その変遷や、石寺近辺にあったと言われている楽市楽座の場所とか、まだまだ定かではないようです。お寺は火事で再建された本堂とこれから再建される三重の塔等で構成される立派な札所。ちなみに宮大工は彦根が世界に誇る「西澤工務店」♪なんと総工費10億!これこそシェー!です。

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当初から何故?の疑問がありました。「廃城なのに石垣が数多く残っているのは何故?」その疑問は当日山頂でたまたまご一緒した山城研究の第一人者「中井氏」が竜谷大のツアーの皆さんに説明されていました・・・・・
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『六角氏が信長に追い散らされた後、観音寺城はほんとに廃城になったのでしょうか?安土城築城にあたり、多くの石材、建材が流用されたことは事実のようですが、この繖山に比べたら安土の山なんて単なる小山、しかも峰続きときたら、安土城の「詰の城」として、整備したとは言わないまでも、完全破却ではなく一定の役割と機能を温存していた、と考える方が自然ではないでしょうか?そもそも、敵(安土築城時点での最大の敵は本願寺勢力及び越後上杉勢か)に繖山を獲られたら、安土城なんか風前の灯火。そういうわけで、安土城の詰め城として、また琵琶湖南岸に続く街道確保の支城郡の一つとして、存続されていた、と考えています。』  
なるほどTHE近江!

by machinoeki | 2008-04-23 20:09 | 語りべウォーク&サイクリング
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