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LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅 武櫓倶

築城400年祭《談話室》 それぞれの彦根物語 2006.8.5

【彦根物語10】
「青い目で見る彦根:30年以上彦根に住んでいる経験」
    

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メルビル、ハロイド
(滋賀大学経済学部外国人教師)



1975年縁あって、彦根に来ました。今年で彦根に着て、31年になりました。しかし、彦根に来ることが決まってから、ミシガン大学で彦根について色々と資料や本を探しましたが、ほとんどなく、一冊だけ、彦根の場所と大きさ、天候などが1段落だけかかれていました。ほとんど、彦根について知識がないまま、彦根にやってきたのです。
 彦根の第一印象は、佐和山トンネルと抜けるとすぐに彦根城が見えて、まるでそれは川端康成の雪国の一説である、トンネルを抜けるとそこは雪国だったという主人公の感動に似たものでした。当時は井伊市長で、彦根藩の藩主が今も彦根の町を守っていらっしゃるのかと思いました。
 生活を始めて、自転車の多さに驚きました。車社会から来た私には、クラクションの代わりに聞こえる、ブレーキの「キー」という音にはなかなか慣れませんでした。
 当時は町なみも今と違い、古い彦根駅で、駅前の道も狭く歩道もなく、アルプラザもありませんでした。私は日本の歴史に興味があったので、機会があるごとに、城町を始め、本町や芹川町などを歩きました。そのころはまだ昔からの家が多く残っていましたし、小さな商店もありました。私は、そこをあるくたびに、江戸時代の侍や商人たちがふっとジグザクに曲がっている角から現れて、私に話しかけてきそうな、奇妙な雰囲気に包まれたものです。その反面不便なこともありました。食料品店で売っていたチーズは一種だったし、オートミールは薬局でかわなければなりませんでした。
築城400年祭《談話室》 それぞれの彦根物語 2006.8.5_f0017409_0592085.jpg1980年代の後半に彦根の駅前は大きく変わりました。5階や6階たてのビルが立ち始め彦根駅から市民会館に向って4車線になり、道の両側に自転車でも走れるくらいの広い歩道ができました。それに、道は夜でも明るくなりました。しかし、便利になった代わりに城下町の香りが駅前から消えて行きました。彦根駅は、近江八幡や守山など他の琵琶湖線沿線の町の駅とかわらなくなってしまったのです。駅の前にはタクシー乗り場、バス乗り場 そして、デパートがあるのです。そう思うのは私だけでしょうか。その上、突然私は、(自分の国ですが)アメリカに攻撃されたように衝撃をうけたのは、マクドナルド、ミスター・ドーナッツ、ケンターキーフライドチキンの出現です。確かに、彦根が国際的に多様化するのは嬉しいことですが、城下町に相応しい建物でもない、どこの場所でもあるような建物でアメリカの物が売られることに戸惑いを感じたり、これは彦根にとって、いいことなのかなと考えることもありました。
 昭和49年(1974年)の彦根には、417人が外国人登録をしていました。その中でアメリカ人は4人しかいませんでした。外国人登録数は2005年(平成17年)には約 5.5倍の2293人に増えています。アメリカ人の数もミシガン日本センターが出来てから増えましたが、目ざましく増えているのはブラジルの人です。中国人、フィリピン人、ベトナム人も増えているのです。色々な所でいろいろな外国の人と出会えるようになってきたのです。違う国の人が増えることで、町は変化を余儀なくされることも、多くあると思いますが、その反面、新しいアイデアや町にエネルギーを与えてくれているように感じています。
 しかし古き伝統や町並みと共に、歴史を保存しながら、にぎやかで活気に満ちた町として彦根が発展してほしいと思います。私は、彦根の人が井伊直弼は開国をした人だと言うことよくききます、でもまだその声は世界に届いていないように思います。ぜひ、観光客や、永住のすみかをさがしている人に、もっと彦根のよさや、歴史の中で果たした役割を宣伝していただきたいと思っています。
by machinoeki | 2007-11-27 11:35 | 談話室「それぞれの彦根物語」
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