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LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅 武櫓倶

第二回辻番所サロン「芹橋生活」

身分移動する下級武士 ―足軽と武家奉公人―   
              東谷 智(甲南大学文学部准教授) 
                                          リポート By E.H 

辻番所サロン「芹橋生活」の第2回目は、甲南大学文学部准教授 東谷 智さんが、一通の宗門送り状を読み解き、「下級武士の身分移動」という固定観念を破る実態を明らかにされた。

 東谷さんは、若い頃に彦根市史の編纂にアルバイトとして関わり、原史料にあたった経験をもつ。専門は日本近世史で、藩政機構・行政のしくみを研究対象とされ、フィールドは越後長岡藩、越前鯖江藩、津藩、彦根藩、山上藩(永源寺山上)、水口藩に及んでいる。自治体史の編纂にも関わり、「蒲生町史」、「永源寺町史」、「近江秦荘の歴史」の編纂や日野町、甲賀市の歴史調査にも参加されている。
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一通の宗旨送り状から
  意外だったのは、東谷さんの解説で一通の宗旨送り状が読めたことだ。
古文を読むのは苦手と思っていたが、足軽屋敷で記録文を読むと現場の臨場感とともに、多くのことが判明して楽しかった。少し長くなるが、紹介する。

 覚(おぼえ)
             舟橋右仲組(ふなはし うちゅうくみ)
                村瀬杢太夫妹(むらせもくだゆういもうと)
                        やお
一(ひとつ)
右之者、此度其村方新兵衛(みぎのもの、このたび そのむらかた しんべえ)
妻ニ縁付引越参候、是迄(つまにえんづきひっこしまいりそうろう、これまで)
当組内ニ罷在、悪事・差構(とうくみないにまかりあり、あくじ・さしかまえ)
之筋等無之、宗旨者代々(のすじなどこれなく、しゅうしはだいだい)
本願寺宗、御当地願通寺(ほんがんじしゅう、おんとうちがんつうじ)
旦那ニ候、則願相済候間、当(だんなにそうろう、すなわちねがいあいすみそうろうあいだ、とう)
卯之宗門御改帳御書載(うのしゅうもんおんあたらめちょうおんかきのせ)
可有之候、 已上(これあるべくそうろう、いじょう)

                 手代(てだい)
天保十四年            佐藤 延助 印(さとうのぶすけ)
 卯正月(うしょうがつ)    同(どう)
                    古川 牧太 印(ふるかわ まきた)

  蒲生郡市原野村(がもうぐんいちはらのむら)

            庄屋(しょうや)

            横目中(よこめちゅう)


 現在の役所では、私が生まれ、結婚し、子供が生まれ、死んだという情報を戸籍台帳でとらえ、住んでいる場所を住民基本台帳で把握する。それを変更するのは出生届や死亡届、転出届と転入届などである。
 こうした個人把握(人別という)を江戸時代は小さな町や村の庄屋や役人が宗門改帳に記載して毎年3月に領主に提出することで達成していた。宗旨送り状は一種の転出届であり、転入届が宗旨受取り状に相当する。

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武士から百姓へ
 ここに掲げた天保14年正月の宗旨送り状では、彦根藩士舟橋右仲(300石取り)に預けられた彦根藩鉄砲足軽三十人組の村瀬杢太夫の妹「やお」が、蒲生郡市原野村(現在の東近江市市原野町)の百姓・新兵衛の妻として嫁入りしたので、市原野村の宗門改帳に記載するよう依頼している。発行人は足軽手代の佐藤 延助と古川 牧太、受取人は村の庄屋と横目(目付)である。
 彦根藩では足軽は武士身分であるから、「やお」は武家から百姓に身分移動したことになる。宗旨送り状はそれを公式に認めている。

 300石取りの武家と百姓が結婚することは身分社会ではあり得ないが、足軽と百姓では身分が違うもののクラスは釣り合うと認められていたと推定される。
 想像力を逞しくすれば、何らかの事件や事情で足軽の妻が百姓出身であったり、百姓が足軽に採用されたりすることも、逆に足軽の世帯が百姓、町人になることも十分考えられる。
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武家奉公人
 もう一つの身分移動が「武家奉公人」である。
 武家奉公人とは中間(ちゅうげん)、小者(こもの)を指すのが一般的で、足軽を加える場合がある。中間・小者の定義は地域・藩・武家によって意味合いが異なり、区別が難しい。一般的に、中間とは武家の雑用を行い、大名行列では奴(やっこ)の役を務める期限付きもしくは一時雇いの奉公人で、小者は、武士の私的奉公人で住み込みで雑用を行ない、下人とも下男ともいう。
 これらを一括して「武家奉公人」と定義している。武家奉公人は、元来は税として村に奉公人を出すように賦課したものだが、次第にお金で納めるようになり(代銀納)、そのお金で奉公人を雇う形に変化した。

武士と武家奉公人が混在する下級武士
 上記のように従来は中間・小者を武家奉公人ととらえ、人別を村に残したまま(百姓身分のまま)武家に奉公する者と思われてきたが、東谷さんの研究により中間・小者の中には「武士」と「武家奉公人」が混在していることが明らかになった。
 享和2年(1802年)、彦根城下平田町では、女性の当主32名のうち10名が夫もしくは倅が「奉公人」と記されており、これは夫や倅が人別を武士に移動したため女性が当主になったとみられる。一方、平田町の105家のうち20家が武家奉公人とされており、これは人別を移動しない本来の「武家奉公人」である。

 このように、中間・小者には武士になるもの、ならないものがあり、複雑な身分移動が起こっている。こうした状況は、彦根藩の場合、足軽になると明確に武士に人別が移動し屋敷地にイエを形成するが、東谷さんが調べた旗本関氏(日野町中山に陣屋があった)の分限帳(武士の職員録)に記載された足軽は人数だけが記載されており、中間・小者と同じ扱いで武家奉公人の可能性が高いと思われる。


 いずれにせよ、下級武士は農民や町人との身分移動や交流があり、決して閉じた狭い世界ではなかったと言える。 芹橋の足軽組でも身分移動の実態が明らかになるのだろうか? 今後の研究に期待したい。

 最後に、もう一つだけ、私は思いたい。
 身分移動する人々が不幸であれ幸福であれ、その時こそ人として輝く真実の瞬間であった。そして、その輝きは今も未来も大切にしなければならないと。       (By E.H)
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 次回は、第3回 2月15日(日)10:30~12:00
渡辺 恒一さん(彦根城博物館学芸員)による「芹橋足軽組の居住配置の復元」です。
組を単位として組織され、形成された芹組足軽屋敷だが、どのような配置になっていたのか。辻番所の位置や複雑な住居の配置など謎が多い「組屋敷」の配置について話していただきます。
by machinoeki | 2009-01-26 19:44 | 彦根景観フォーラム
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