LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅 武櫓倶

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おおたににゃんぶ登場!!!

義の盟友「おおたににゃんぶ」颯爽登場!

天下人豊臣秀吉公に「百万の軍勢の采配をさせてみたい」と言わしめた名将!
おおたににゃんぶのモデル「大谷吉継は智勇兼備・人望も厚かった名将として知られている。
『名将言行録』でも、「吉継、汎く衆を愛」し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人、称して賢人と言ひしとぞ」と高く評価されている。

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 【おおたににゃんぶプロフィール】  

大谷吉継(大谷刑部)の生まれ変わりのねこ。
しょうぶの花を手に持っています。
無二の親友「三成」と、自分を取り立ててくれた「秀吉様」の事が大好き。
今は跡形も無い敦賀城に思いを馳せています。

性格…感情を外には出さず、いつも冷静でクールな猫。誰からも信頼されやすい。
略称…刑部、にゃんぶ
出身地…近江の国・小谷(おおたに)
現住所&命名者…彦根・花しょうぶ通り「しょうぶ屋」
好きなもの…抹茶、濃茶、梅酒、三成とのお茶会、温泉(特に草津温泉)
大切なもの…義の心、母親への恩
嫌いなもの…裏切り行為、無粋な噂話
特技…秀吉さまにも褒められた采配
趣味…絵をかく
夢…もう一度「石田三成」とともに「秀吉様」のもとで仕える事。


f0017409_18454097.jpgにゃんぶ生みの親:
chiduki・EUROPE・ZIKILL
イラスト:chiduki



参考記事[執筆者:岡本良一氏]

大谷吉継(?―1600)
安土桃山時代の武将。刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)。母は北政所の侍女。紀之介といった早いころから豊臣秀吉に近侍。賤ヶ岳合戦では七本鎗に匹敵する手柄をたてた。秀吉の信任厚く奉行にもなり、1589年(天正17)に越前敦賀5万石をあてがわれた。文禄・慶長の役では石田三成らと軍監を務めた。関ヶ原の戦いでは、徳川家康の会津攻めに従うつもりで、敦賀から美濃の垂井まできたが、親友の石田三成に懇請され、敗戦覚悟で西軍に加わった。終始よく戦ったが、寝返りをした小早川秀秋(こばやかわひであき)の大兵に側背から攻撃を受け、奮戦のすえ陣没した。ハンセン病で目が見えず、さらしに墨で描いた甲冑を身にまとい御輿に乗って戦闘を指揮したと伝える。

f0017409_2254368.jpgその指揮能力の高さは評判で、秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」といわしめたほど。もちろん実際はそれほど大勢の兵を率いたことはないが、余程統率力に優れたのだろう。
関ヶ原では2000の兵で奮闘。関ヶ原に散ったのは石田三成との友情に殉じたからで、時代の流れを読みとる眼力は持っていた。病魔に冒された身でありながら、秀吉に寵愛され出世を遂げた。人望も将としての器もあったのだろう。交易の町・敦賀の豪商たちを相手に、よく発展につとめた。


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大谷吉継は不治の病により目がほとんど見えないほど関ヶ原決戦当時、病状は悪化していた。
そんな吉継の目となり奮戦したのが、最も信頼する腹心垂井城主「平塚為広」であった。
為広は吉継の信頼に応え、裏切りによる多勢の敵をも何度も押し返し最後の最後矢が折れ力尽きるまで戦っていた。もはや疲労も体力も限界に達していた時、渾身の力を振り絞って槍を揮い、敵兵一人の首を挙げた。そして彼は従者にこの首を持たせて吉継のもとへ走らせた。
「もはやこれまででござる。日頃の約束を果たし、今こそ討死いたす。冥土の土産に首一つ進上するので、吉継殿も早うお腹を召されよ」という言づてと共に歌一首を書き添えて送った。

  「君が為め捨る命は惜からじ 終に留まらぬ浮世と思へば」 

 吉継は為広の使者に会って、「為広殿は武勇といい和歌といい、感ずるに余りある御仁である。わしも早々に自害してあの世で逢おうぞ」と答え、甥の祐玄という僧に返書とともに一首の歌を認めさせて使者に手渡した。

 「契りあれば六つの衢(ちまた)に待てしばし 遅れ先だつことはありとも」
 


そして目が見えぬ吉継は従者の一人一人に名を名乗らせて感謝と惜別の気持ちを伝え、あの世とこの世の境にある六つの衢(ちまた)で待つ為広のもとへと旅立った。
戦場で共に散っていった大谷吉継と平塚為広の契りによる、真に見事で壮絶な辞世の句である

大谷吉継は盟友石田三成との友情に殉死し、平塚為弘は大谷吉継との固い契りに命を捧げた。
義の旗のもとに集いし幾多の英雄達は、不利を承知で背筋を伸ばし、それぞれの夢と運命を重ねながら「志」を貫いた。しかし残念ながら利と数の大きなうねりに翻弄され、やがて悲しい最期を迎えることになる・・・でも彼らの生き様は、後世の義の志に共感する感性豊かな多くの人々に、人がこの世に生きる意味や歩むべき道標として、清らかな力強いモーメントを与え小さな心の支えとなりつづけています。      

             

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by machinoeki | 2009-01-31 18:44 | さこみつにゃんぶ日記

第二回辻番所サロン「芹橋生活」

身分移動する下級武士 ―足軽と武家奉公人―   
              東谷 智(甲南大学文学部准教授) 
                                          リポート By E.H 

辻番所サロン「芹橋生活」の第2回目は、甲南大学文学部准教授 東谷 智さんが、一通の宗門送り状を読み解き、「下級武士の身分移動」という固定観念を破る実態を明らかにされた。

 東谷さんは、若い頃に彦根市史の編纂にアルバイトとして関わり、原史料にあたった経験をもつ。専門は日本近世史で、藩政機構・行政のしくみを研究対象とされ、フィールドは越後長岡藩、越前鯖江藩、津藩、彦根藩、山上藩(永源寺山上)、水口藩に及んでいる。自治体史の編纂にも関わり、「蒲生町史」、「永源寺町史」、「近江秦荘の歴史」の編纂や日野町、甲賀市の歴史調査にも参加されている。
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一通の宗旨送り状から
  意外だったのは、東谷さんの解説で一通の宗旨送り状が読めたことだ。
古文を読むのは苦手と思っていたが、足軽屋敷で記録文を読むと現場の臨場感とともに、多くのことが判明して楽しかった。少し長くなるが、紹介する。

 覚(おぼえ)
             舟橋右仲組(ふなはし うちゅうくみ)
                村瀬杢太夫妹(むらせもくだゆういもうと)
                        やお
一(ひとつ)
右之者、此度其村方新兵衛(みぎのもの、このたび そのむらかた しんべえ)
妻ニ縁付引越参候、是迄(つまにえんづきひっこしまいりそうろう、これまで)
当組内ニ罷在、悪事・差構(とうくみないにまかりあり、あくじ・さしかまえ)
之筋等無之、宗旨者代々(のすじなどこれなく、しゅうしはだいだい)
本願寺宗、御当地願通寺(ほんがんじしゅう、おんとうちがんつうじ)
旦那ニ候、則願相済候間、当(だんなにそうろう、すなわちねがいあいすみそうろうあいだ、とう)
卯之宗門御改帳御書載(うのしゅうもんおんあたらめちょうおんかきのせ)
可有之候、 已上(これあるべくそうろう、いじょう)

                 手代(てだい)
天保十四年            佐藤 延助 印(さとうのぶすけ)
 卯正月(うしょうがつ)    同(どう)
                    古川 牧太 印(ふるかわ まきた)

  蒲生郡市原野村(がもうぐんいちはらのむら)

            庄屋(しょうや)

            横目中(よこめちゅう)


 現在の役所では、私が生まれ、結婚し、子供が生まれ、死んだという情報を戸籍台帳でとらえ、住んでいる場所を住民基本台帳で把握する。それを変更するのは出生届や死亡届、転出届と転入届などである。
 こうした個人把握(人別という)を江戸時代は小さな町や村の庄屋や役人が宗門改帳に記載して毎年3月に領主に提出することで達成していた。宗旨送り状は一種の転出届であり、転入届が宗旨受取り状に相当する。

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武士から百姓へ
 ここに掲げた天保14年正月の宗旨送り状では、彦根藩士舟橋右仲(300石取り)に預けられた彦根藩鉄砲足軽三十人組の村瀬杢太夫の妹「やお」が、蒲生郡市原野村(現在の東近江市市原野町)の百姓・新兵衛の妻として嫁入りしたので、市原野村の宗門改帳に記載するよう依頼している。発行人は足軽手代の佐藤 延助と古川 牧太、受取人は村の庄屋と横目(目付)である。
 彦根藩では足軽は武士身分であるから、「やお」は武家から百姓に身分移動したことになる。宗旨送り状はそれを公式に認めている。

 300石取りの武家と百姓が結婚することは身分社会ではあり得ないが、足軽と百姓では身分が違うもののクラスは釣り合うと認められていたと推定される。
 想像力を逞しくすれば、何らかの事件や事情で足軽の妻が百姓出身であったり、百姓が足軽に採用されたりすることも、逆に足軽の世帯が百姓、町人になることも十分考えられる。
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武家奉公人
 もう一つの身分移動が「武家奉公人」である。
 武家奉公人とは中間(ちゅうげん)、小者(こもの)を指すのが一般的で、足軽を加える場合がある。中間・小者の定義は地域・藩・武家によって意味合いが異なり、区別が難しい。一般的に、中間とは武家の雑用を行い、大名行列では奴(やっこ)の役を務める期限付きもしくは一時雇いの奉公人で、小者は、武士の私的奉公人で住み込みで雑用を行ない、下人とも下男ともいう。
 これらを一括して「武家奉公人」と定義している。武家奉公人は、元来は税として村に奉公人を出すように賦課したものだが、次第にお金で納めるようになり(代銀納)、そのお金で奉公人を雇う形に変化した。

武士と武家奉公人が混在する下級武士
 上記のように従来は中間・小者を武家奉公人ととらえ、人別を村に残したまま(百姓身分のまま)武家に奉公する者と思われてきたが、東谷さんの研究により中間・小者の中には「武士」と「武家奉公人」が混在していることが明らかになった。
 享和2年(1802年)、彦根城下平田町では、女性の当主32名のうち10名が夫もしくは倅が「奉公人」と記されており、これは夫や倅が人別を武士に移動したため女性が当主になったとみられる。一方、平田町の105家のうち20家が武家奉公人とされており、これは人別を移動しない本来の「武家奉公人」である。

 このように、中間・小者には武士になるもの、ならないものがあり、複雑な身分移動が起こっている。こうした状況は、彦根藩の場合、足軽になると明確に武士に人別が移動し屋敷地にイエを形成するが、東谷さんが調べた旗本関氏(日野町中山に陣屋があった)の分限帳(武士の職員録)に記載された足軽は人数だけが記載されており、中間・小者と同じ扱いで武家奉公人の可能性が高いと思われる。


 いずれにせよ、下級武士は農民や町人との身分移動や交流があり、決して閉じた狭い世界ではなかったと言える。 芹橋の足軽組でも身分移動の実態が明らかになるのだろうか? 今後の研究に期待したい。

 最後に、もう一つだけ、私は思いたい。
 身分移動する人々が不幸であれ幸福であれ、その時こそ人として輝く真実の瞬間であった。そして、その輝きは今も未来も大切にしなければならないと。       (By E.H)
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 次回は、第3回 2月15日(日)10:30~12:00
渡辺 恒一さん(彦根城博物館学芸員)による「芹橋足軽組の居住配置の復元」です。
組を単位として組織され、形成された芹組足軽屋敷だが、どのような配置になっていたのか。辻番所の位置や複雑な住居の配置など謎が多い「組屋敷」の配置について話していただきます。
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by machinoeki | 2009-01-26 19:44 | 彦根景観フォーラム

「戦國丸」がついに!世界遺産に!!!

1/15付け朝日新聞の夕刊
       「勝手に関西世界遺産」に登場
              街の駅「戦國丸」がついに!
                    世界遺産?!


2/22戦國丸で「しまさこにゃん生誕の儀」(誕生日イベント)と共に開催する、第一回佐和山義将講談 『血戦関ケ原 石田三成の死闘』の話し手、講談師「旭堂南海」さんによる、素晴らしい世界遺産推薦メッセージ(文)です♪
是非ご覧下さい

f0017409_1631271.jpg1/15付け朝日新聞の夕刊
「勝手に関西世界遺産」の記事が見られます。
      ↓
戦国時代を生きた義の武将、直江兼続が主人公の今年のNHK大河ドラマは好スタートと聞く。さて滋賀県彦根市にも、義を掲げ、賛同する若者たちが全国から集っている場所があるのだ・・・略・・・彼らは笑いながら答えた。「勝った負けたという結果のみで人を判断するのではなく、どう生きたか、どう生きるのかに義があるのです」      
つづきはasahi.com~


f0017409_16315737.jpg2月22日(日)
佐和山二年二月二十二日
「しまさこにゃん生誕記念日楽座」
■第1部:12:30~13:30
 『しまさこにゃん生誕の儀』

 参陣募集:予約のみ 50名様 記念品と入場料: 2,000円
記念品:再興湖東焼の一志郎窯の『漆黒のさこにゃんぐい呑み』・特製巾着袋・記念のお菓子・さこにゃんの自筆サイン入りのフォトフレーム※記念品は変更されることがあります。 



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■第2部:14:00~15:15
 第一回 佐和山義将講談 
『血戦関ケ原 石田三成の死闘』

 上方講談師 旭堂南海さん 戦國丸へ!木戸銭:2,000円 (お飲物とお菓子付き)
 参陣募集:椅子席:50+立見数席  

関ヶ原合戦屏風を背に

三成を講ず!!

   熱き語りに・・

    佐和山が燃える!

      戦國丸が泣く!!




午後2:00~3:00 (午後1:45開場)
午後3:00~3:15 南海さんと戦國を語る
ところ: 戦國丸「湯殿」
木戸銭: 2,000円 (お飲物とお菓子付き)
参陣募集: 椅子席:50+立見数席

詳細・予約は⇒
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by machinoeki | 2009-01-15 16:43 | 「戦國丸」

《談話室》 それぞれの彦根物語 2008.4.19

【彦根物語43】
  「佐和山一夜城復元プロジェクト」   

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和田 一繁
(彦根商工会議所 青年部会長)



彦根商工会議所青年部(呼称 彦根YEG)は、2007年3月21日より11月25日250日間開催された国宝・彦根城築城400年祭の主催事業の一環として、佐和山一夜城復元プロジェクト行い 一夜城として佐和山山麓 に天守を模擬復元し(高さ約18m×横約13m)2つの名城に囲まれた彦根をアピールいたしました。

なぜ彦根城じゃなく佐和山城なのか?まず原点に戻ろうと、彦根初代・藩主井伊直政が最初に入城したのが佐和山城であります。
この佐和山の地から彦根藩が始まり戦国の世に彦根で落城した佐和山城、そして落城後築城された彦根城、この二城にスポットを当て、佐和山に天守を模擬復元し、期間中、二つの名城に囲まれた彦根をアピールしました。全国各地より、彦根佐和山の地に来ていただき歴史のロマンを感じていただいたと思います。
この佐和山一夜城をきっかけに、彦根のまち全体が更に元気になり彦根城や佐和山城、井伊家、石田三成等の誇れる歴史文化、人物の価値を、次世代につなげ伝承していく事が、この事業を通じて果たすべき我々の役目でありました。

またこの事業を通じて、彦根城だけではなく、彦根の新しい観光資源ツールを青年部として活用し地域活性化につなげて行きたい。
行政、市民の中で彦根YEGの存在価値を少しでも明確にし、共に彦根が更に元気になる事を考えた提案を増やしていきたい。

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by machinoeki | 2009-01-15 11:06 | 談話室「それぞれの彦根物語」

《談話室》 それぞれの彦根物語 2008.5.17

【彦根物語45】
  「彦根には素晴らしいモノがありました―彦根まちなか博物館」

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安達 昇
(彦根商工会議所 中小企業相談所次長)





国宝・彦根城築城400年祭事業は、過去の失敗?ハコものでなく、イベントだけでなく、持続可能なテストケースとしてサスティナブルな事業を提案・実行したいという経済界からの提案であった。
「再発見と新創造」<Re-Discovery & New-Creation>をテーマに事業提案をした。中でも日本が誇るべき文化財としての彦根城と共に彦根の埋もれたお宝に着目した「彦根まちなか博物館」は、多くの市民に感動と参画を与えたことと思う。
明治の3大書家「日下部鳴鶴」・明治創設の私鉄電車「近江鉄道」・明治・大正のチラシ「彦根の引き札」・全国の郷土玩具収集家「高橋狗佛」のコレクションを一堂に展示することができた。
しかも市民参画という点で主婦・学生・公務員・社長などから構成する「カリスマ学芸員」の協力が成功へと導かれた。
また、各コレクションに関する業界協力者の存在も忘れてはならない。多くの人々と共に実現した「彦根まちなか博物館」は、今も夢京橋あかり館2階ギャラリーで継続されている。おもてなしの原点「一期一会」が彦根には、脈々と受け継がれている。

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【キーワード】
1.彦根まちなか博物館
2.カリスマ学芸員
3.国宝・彦根城築城400祭
4.再発見と新創造
5.日下部鳴鶴
6.近江鉄道
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by machinoeki | 2009-01-15 11:05 | 談話室「それぞれの彦根物語」

もうひとつの「それぞれの彦根物語」始まる!

2008年12月21日(日)、彦根景観フォーラムが主催する第1回辻番所サロン「芹橋生活」が、彦根市芹橋二丁目の辻番所・足軽屋敷で開かれ、芹橋の住民など約50人が参加されました。

                                          リポート by E・H

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辻番所保全活動の経過
 彦根景観フォーラムにとって、芹橋地域は「未来に遺したい日本の原風景」の典型であり、彦根の世界遺産登録申請の重要な鍵であると考えています。
 その芹橋二丁目のほぼ中央にあって、江戸末期から今日まで奇跡的に残った辻番所・足軽屋敷は、市民をはじめとする多くの皆様の寄付と、これを受けた彦根市の買い取りにより、売却・取り壊しを免れました。
 そして、市民と行政が力をあわせて、辻番所・足軽屋敷を保全しつつ活用するため、「彦根辻番所の会」が、12月から活動を開始しました。
 当面、毎月第3日曜日午前10時30分から12時まで、辻番所・足軽屋敷を活用して、辻番所サロン「芹橋生活」を開催します。まず、歴史的な話から始めて、芹橋の生活や、城下町の文化などに話題を広げていく予定です。


第1回 辻番所サロン「芹橋生活」 
 2008年12月21日(日)の第1回目は、母利美和 京都女子大学教授、彦根景観フォーラム副理事長に「江戸時代の足軽」と題してお話しいただきました。足軽屋敷は30人の定員に対して50人近い人々が来られ、満員の状況でした。

「江戸時代の足軽」 
   母利美和 京都女子大学教授、彦根景観フォーラム副理事長

辻番所・足軽屋敷の住人であった足軽とはどんな人たちだったのか、江戸時代の一般的な足軽のイメージを紹介し、彦根藩の足軽と比較して特徴を明らかにしたい。

■ 江戸時代の足軽の一般的な姿
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 戦国時代には集団戦の主力であった足軽だが、江戸時代になると戦乱の終息により臨時雇いの足軽は大半が召し放たれ、武家奉公人や浪人となり、残った足軽は武家社会の末端を担うこととなった。
 徳川直属の足軽は、幕府の末端行政・警備警察要員として「徒士(かち)」や「同心」に採用された。
 諸藩では、大名直属の足軽は足軽組に編入され、平時は各所の番人や各種の雑用、「物書き足軽」と呼ばれる下級事務員に用いられた。このほかに、大身の武士(彦根藩は木俣家など)の家来(陪臣)にも足軽がいた。

●足軽は一代限りの身分
 足軽は、基本的に一代限りの身分である。実際には、引退に際して子弟や縁者を後継者とすることで世襲は可能であった。また、薄給ながら生活を維持できるため、後にその権利が「株」として売買され、裕福な農民、商人の二・三男の就職口ともなった。
 さらに、有能な人材を農民や町人から登用する際に、一時的に足軽として在籍させ、その後昇進させる等のステップとしての一面もあり、近世では下級公務員的性格へと変化した。足軽を帰農させ軽格の「郷士」として苗字帯刀を許し、藩境・周辺警備に当たらせた事例もある。(熊本藩、仙台藩)

●武家奉公人と同列の扱い
 このように、江戸時代の足軽は、鉄砲隊とは名ばかりで、地役人や臨時の江戸詰藩卒として動員されたりした。逆に好奇心旺盛な郷士の子弟は、これらの制度を利用して見聞を広めるために江戸詰め足軽に志願することもあった。また、「押足軽」と称する、中間・小者を指揮する役割の足軽もいた。足軽は、武家奉公人として中間・小者と同列と見られる例も多く、諸藩の分限帳には、足軽や中間の人名や禄高の記入がなく、ただ人数が記入されているものが多い。また、百姓や町人と同じ扱いをされた藩もあった。
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■ 彦根藩の足軽の特徴
●彦根藩の足軽組織
 彦根藩の足軽は 弓組20人が6組、鉄砲組30人が25組、40人が5組、50人が1組、合計1,120人の編成。各組は、武役席の物頭(ものがしら)が支配したが、数年から十数年で支配替えがあった。各組には、鉄砲、弓の流儀があり、物頭が交替しても流儀は変わらなかった。

●彦根では苗字帯刀を許された身分
 彦根藩の足軽は、苗字帯刀を許されていた。苗字を持たない中間・小者とは一線を画する身分として扱われ、慶長期の分限帳では、個々の人名までは把握できないが大坂両陣に出陣した足軽はすでに苗字をもっていた。

●一戸建・門構えのある足軽組屋敷を形成
 城下の「外ヶ輪」(外堀より外の第4郭)の居住区にそれぞれ50坪程度の屋敷地を与えられて一戸建ちの門構えのある屋敷を構え、組ごとに組屋敷を形成した。扶持高は、慶長7年(1602年)では、一人につき17石とされ、幕末期では20俵2人扶持とされた。
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●「武役」と「役儀」・彦根藩足軽の仕事
 武役では、弓・鉄砲による足軽隊として物頭の指揮のもと各騎馬組に従軍した。このため、日常から武芸稽古が求められ、稽古銀が支給された。寛政12年の善理橋(せりばし)十二丁目(鉄砲40人組)の場合、鉄砲矢場での作法、日常的な稽古の規則、矢場管理などが定められていた。
 戦争がなくなると、足軽は、井伊直孝の時代に武役の他に城中番を「役儀」として勤めるようになった。元禄8年(1695年)には、足軽組の一部が「御城内番」や城下11口に設けられた「御門番」を勤めていたことが記録されている。
 このほかに、江戸詰、普請方への「出人」、注進番・辻番、お屋敷見回り番、大津廻米舟への「上乗御用」、領内の「米見」(収穫高に応じて年貢を取るため筋奉行に同行して計算、記録をしていく役)、近国・遠国への使者派遣などを順番割当で勤めた。
 また、「引け人」とよばれ、作事方・御材木奉行・町奉行から引き抜かれ役儀を勤める者もあった。これらを含め、彦根藩では武士の80%が役儀を勤め、他藩に比べて非常に多い。

 彦根藩の足軽は他藩にくらべ優遇されている。
他藩では長屋住まいが普通であるが、屋敷地が与えられ門付きの一戸建てを構え、すべてが城下に住み、給与が保証された。
 これは、役儀が割当てられ藩政機構に位置づけられたことと関連が深いとみられる。金沢藩とほぼ同じ扱いである。
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■ 町人との関係解明が今後の焦点
 今後の研究ポイントは、町人と足軽との関係の解明である。足軽屋敷地は、本町、河原町といった商業地と接しており、日常生活でも町人との関係が強かったと見られる。この関係を解明する史料があれば足軽の暮らしが解明できる可能性がある。
 皆さんのお宅にあれば是非見せていただきたい。

質問1:私の家は勘定人町にあり、先祖は勘定奉行であったといいます。勘定人はどのような足軽なのでしょうか?
 勘定人は藩の経理・財政を担当する、今日でいうと主計官であり、足軽とは違います。勘定人は、彦根では芹組足軽屋敷と隣接していますが、勘定人町という別の居住区を割り当てられ、宗安寺の隣の勘定所という役所に勤めていたのです。
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質問2:鉄砲矢場はどこにあったのでしょうか? 
 残念ながら私も知りません。どなたか、ご存じの方はおられますか。
(会場から)芹橋の古地図に「矢場」という区画の記述がありました。

質問3 筆頭家老の木俣家にも足軽がいたということでしょうか? どこに住んでいたのでしょうか?
 木俣家は、約400人の家臣を抱えており、そのなかには足軽身分の人もいました。
 彦根城下町には、いくつもの木俣屋敷、木俣家下屋敷があり、長屋門などで居住していたと考えられます。
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1~3月のサロン『芹橋生活』の予定は次のとおりです。

第2回 1月18日(日)10:30~12:00
     東谷 智(甲南大学文学部准教授)
     身分移動する下級武士 ―足軽と武家奉公人―

第3回 2月15日(日)10:30~12:00
     渡辺 恒一(彦根城博物館学芸員)
     芹橋足軽組の居住配置の復元

第4回 3月15日(日)10:30~12:00
     母利 美和(彦根景観フォーラム副理事長、 京都女子大学文学部教授)
     足軽善利組の変遷


定員 30名   ※暖房費 100円
主催:NPO法人彦根景観フォーラム、彦根辻番所の会
※駐車場はありません。駐輪場は利用していただけます。
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by machinoeki | 2009-01-13 18:28 | 彦根景観フォーラム

佐和山義の三将新春揃い踏みイベント

あらためまして
あけましておめでとうございます!!

本年も、「義の三将」さこみつにゃんぶ~♪
しまさこにゃん、いしだみつにゃん、おおたににゃんぶ
共々、彦根&花しょうぶ通りもどうぞ宜しくお願いします


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さて新春早々「佐和山義の三将」揃い踏み初詣イベントを開催させていただきました。
東は横浜、西は神戸など遠方からも多数参陣いただき、誠にありがとうございました。
心配していたお天気も、相変わらずの三成好天に恵まれ、初春から縁起の良い和気あいあいで楽しい一日となりました。
ではでは早速!速報フォトレポートです!!

2009年1月3日(土)
場所:千代神社、花しょうぶ通り特設会場 
壱・義の三将千代神社へ初詣
弐・義の三将と餅つき大会
三・義の三将対抗カルタ合戦


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         午前中から義の三将の出番を待ってくださる義の家臣団のみなさま!!!


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大勢の家臣団を従えてイザ!出立つ~!先陣は勿論しまさこにゃん!みなのものかかれー!


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祭神は天宇受売命で天戸を開いた芸能の神様、佐和山麓の古沢町から移築した由緒ある神社


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やはり一年の計!初詣は身が締まります!おまけにお年賀(お年玉)まで頂いて♪ 大儀じゃ!


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          秋の佐和山イベントから地元でははじめて勢揃いする義の三将


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       予想以上にたくさん集まってくださいました!めっちゃめちゃ感激~の三将


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                にゃんぶがヨイショ!ヨイショ!
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          もひとつヨイショ!殿~!がんばれ!!!それ!ヨイショ!!!
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もちつきは初めてのにゃんぶながら結構腰が入って心眼で的確につき続ける・・さすが!です♪


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    できあがったお待ちかねのつきたてお餅♪きな粉と餡で頂きました!!!


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   ワシもひとつ柔らかきなこもちを賞味するか!♪ おーっ!かたじけない!!!

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  みんなで力を合わせて美味しいお餅がつき上がり「う~むっ・・・余は満足じゃ!!!」

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     三将が対抗するカルタ大会‼絵札は家臣団精鋭十人を選抜してイザ勝負!
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 カルタ大会は素晴らしい物語の三将の絵札を争奪する楽しい合戦!さて勝つのは・・・

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 何だよ~こんなの簡単だよ~片腹痛い所作でござる・・・「あーっあっ」余裕余裕・・・・   
                     
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       みんなを安心させておいて・・・・いきなりーにゃんぶ殿~!心眼で突進!!!


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    これはわしのじゃー!  いや私のでござりまする!  ナナナント申されるー!


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寄ってたかって大騒ぎ!!可哀想なのは最後の絵札を持った若侍「助けてー!!!」


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戦いすんで最後は記念写真!出会いに感謝♪今年は義と愛の一年になりそうです・・



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桜の季節に再会(さいちぇん)!!いよいよ新しいNHK大河ドラマ「天地人」もスタート♪見てね!
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by machinoeki | 2009-01-03 18:47 | さこみつにゃんぶ日記

彦根景観フォーラムの400年祭(2)

それぞれの彦根物語57
彦根景観フォーラムの400年祭(2) 
                                 2008.12.20 リポート by E・H


  「それぞれの彦根物語」は、彦根景観フォーラムが寺子屋力石で2006年5月13日に開催して以来、今回で58回目を迎えた。この日は、「彦根景観フォーラムの400年祭」の第2回目として、56回までの「それぞれの彦根物語」を振り返る試みが行われた。


語り部達の「それぞれの彦根物語」 
 配られたリストには56回の語り部とテーマが、歴史、文化、自然、建築、観光、400年祭と大きく分けられ、さらに歴史は井伊直弼、江戸期、製糸産業、パーソンズなどに、文化は絵と写真、教養、体験、ボランティアに、観光は女将、経営、商店街、新コースに、400年祭は催しとサポートと分けられていた。その区分に従って、コーディネーターが各回の語り部と内容を1枚にまとめたスライドを紹介し、みんなで思い出や感想を語り合った。

 語り部ご自身もかなり参加されており、「わくわくして発表の準備をした」、「勉強が楽しかったのは生まれて初めて」、「発表予定者が病気で急遽ピンチヒッターにたった」など発表までの苦労話(?)や思いがけない後日談が飛び出して、会場は大いに盛り上がった。
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篤姫と井伊直弼  「それぞれの彦根物語」の楽しみ方
 語り部とテーマ、参加者の話などはあまりにも多いので省略するが、私にとって、56回の「それぞれの彦根物語」は、すべてが新鮮だった。

 第1回目の滋賀大学の阿部先生の話から感嘆させられた。「その後の直弼:20世紀に生きた郷土の偉人」というユニークなテーマで、井伊直弼に「開国の英傑」と「天皇に背き反対派を弾圧した暴君」という正反対の評価を向けた20世紀日本社会を照らし出すという試みで、大胆な発想に感心した。
 今年はテレビドラマ「篤姫」で井伊直弼が篤姫と茶席で語る場面があり、今の時代を照らす鏡としての直弼像が見られて大変おもしろかった。歴史は今を照らす鏡だと気づいた。これも「それぞれの彦根物語」のおかげだ。


私の「それぞれの彦根物語」 
  「それぞれの彦根物語」によって、彦根の秘められた歴史や自然、魅力的な人物や市民活動についての知見が増えただけではない。私にとっては、自分の感性が徐々に磨かれていった実感がうれしい。芹川のケヤキ並木や小さな花の美しさに気づき、素晴らしい画家や音楽家、建築家、文学者、経営者や若い起業家、学生達やボランティアの人たちの思いにふれて、町の息づかいや流れる空気、自然の奥深さに心が開いていくような感覚を味わうことができた。

 世界が変わったのではない。自分が変わったのである。多くの素晴らしい語り部に接することから私が得たものは、「見える化」と「自分化」というキーワードだ。見えないものを見えるように表現すること、そして自分に思い切り引き寄せて考えることが大切と思うようになった。
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「それぞれの彦根物語」で得たもの  
  「まちなかギャラリー実働80日」の語り部、角さんが述べられた感想が印象的だった。
 角さんは普通の市民だ。定年退職後何かしたいと思い、妻の父が残した絵と彦根の画家達のコレクションを展示してみたらどうかと思い立つ。そして、「それぞれの彦根物語」に参加して頑張っている人達を知り、自分の思いを話してみた。すると、たちまち賛成してくれて励まされ、自分が元気になった。古い町家の戸をあけ、銀座商店街の協力をえて80日間のまちなかギャラリーを開いて、たくさんのお客さんを迎えることができた。自分にとっては楽しく大きな一歩だったと。

 人は誰もが、キラキラと輝くダイアモンドの原石を持っている。人と人とがつながり合い、思いを共有し、励まし合い、磨いてゆくことでその輝きはさらに増す。「それぞれの彦根物語」は私にそんなことを教えてくれた。


メルビル先生のこと
 最後に、「青い目で見る彦根:30年以上彦根に住んでいる経験」というテーマで話された滋賀大学のメルビル・ハロルド先生が、その後お亡くなりになったという報告があった。

 30年前から現在までの変化を見続けた外国人として、町並みの無秩序な崩壊を残念がっておられた。また、滋賀大学講堂を保存すべくロナルド・キーン博士を招待して大学幹部を説得したことも明らかにされた。その甲斐あって講堂は保全・修復され、今でも使われている。
 心からご冥福をお祈り申し上げたい。                   (By E.H)
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by machinoeki | 2009-01-03 18:10 | 談話室「それぞれの彦根物語」