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築城400年祭《談話室》 それぞれの彦根物語 2006.5.27

【彦根物語3】 「林檎・ワリンゴ・彦根りんご」

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堀井 靖枝
(滋賀大学経済学部附属史料館助手)


 
「林檎」は平安時代に中国より伝来された「苹果(びんご)」を原種とし、西洋リンゴの普及する以前の総称でした。「ワリンゴ」「ジリンゴ」ともいわれ、この系統にあるのが「彦根りんご」です。『頭書増補訓蒙図彙大成』(寛文6年1666)によると來禽(りんご)は「気を下し、痰を消し、霍乱、腹の痛み、消化(渇)を治す。」とあります。『享保元文諸国産物帳』(1734年)でも林檎の栽培の南限は豊後の国までのび、日本の各地で気候に適した品種がそれぞれの呼び名で栽培されていたことがうかがえます。

彦根りんごが一般に紹介されたのは昭和55年(1980)、村松七郎氏が著した『彦根の植物』によってです。最後の1本が昭和30年代に姿を消しますが、村松氏が聞き取りされた、栽培者の北川はるさんの言葉を借りると彦根りんごとは次のようなものでした。

明治から大正にかけて、今の彦根西高校の運動場付近に60~70アールのりんご農園が農家の共同経営でなされていた。熟期は8月中旬、その頃に夜間の冷気が感じられるようになると、果面黄緑の地に鮮やかな紅色が斑状に現れてくる。お盆の供物に重宝された。一面には赤くならない。肉質は西洋リンゴより緻密で、歯切れがいい。酸味は割合多いが、紅熟すると甘みが加わり独特の味覚が出てくる。実がたわわになるので、北国の雪吊りのように四方の枝を縄でつるのが習慣だった。

また、『彦根の植物』のグラビアを飾ったのが、岡島徹州画伯の「彦根りんご図」です。先の北川さんのお話と、忠実に写されたこの絵が彦根りんごを復活するてがかりです。

江戸時代中期より、彦根藩井伊家文書や藩士の家の文書に城下の林檎は多く登場します。十代目藩主直幸(なおひで)が青年期に講釈中の菓子として初物の林檎を供されたことや、後に大老となってから将軍に献上する藩の特産の一品に林檎を選んだ記録が残されています。また、藩士の中には借金をして栽培を試みたり、栽培それ自体を投機の対象と考えた者もいたようですが、一般に他の果樹とともに庭木として林檎を植えた例もみられます。近代に入ると、明治13年の『滋賀県物産誌』彦根町の欄には「檎1088貫、372円」と年間収穫高が記されています。明治35年滋賀県師範学校附属小学校主事校閲の『新撰近江地誌』には彦根の名産として掲載され、昭和37年の『彦根市史』にも彦根の名物として一項が立てられています。しかしながら、昭和23年『滋賀県報告書』では栽培を示す記載は見られず、彦根城下限定でのそう多くはない栽培ではなかったかと考えられます。

この春、彦根りんごを復活する会は発足から3年目の接ぎ木を終えられました。桜のあとに咲く淡いピンクの花、可憐な実をつける彦根りんごが夏の風物詩として、再び彦根の地に復活することを祈るばかりです。


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An apple a day keeps the doctor away.
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by machinoeki | 2006-05-27 17:24 | 談話室「それぞれの彦根物語」
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