LLP(有限責任事業組合)ひこね街の駅 武櫓倶

佐和山城遺跡現地説明会フォトレポート

佐和山城遺跡現地説明会が開催されました

日時 平成21年7月26日(日) 
第1回 10:00~ / 第2回 13:30~

場所 佐和山城遺跡発掘調査現場(彦根市佐和山町地先)
 


遺跡の概要  
今回はじめて佐和山城に関連する本格的な発掘調査が実施されました。石田三成在城時代(天正18~慶長5年)頃の武家屋敷群(建物柱跡・石組遺構・屋敷地を囲う堀・堀を渡る橋状遺構など)から数多く検出され、陶磁器類・屋根瓦・桐文銅製紐金具などが出土しました。石田三成が在城した時代(1590~1600年)を中心とした武家屋敷の景観復元する上で貴重な成果として注目されています。

今回の記者発表や当日の現地説明資料をダウンロードできます
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お問い合わせ 滋賀県文化財保護協会 077-548-9780

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標高233Mの独立丘陵の名城「佐和山城址」大手道で、この山城の位置(ロケーション)と歴史を熱く説明される、彦根市の文化財研究のエキスパート文化財課T氏

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京都新聞WEBニュース~

三成家臣の武家屋敷か
彦根・佐和山城跡、堀跡見つかる


 豊臣秀吉の重臣、石田三成(1560~1600年)が構えた佐和山城の遺跡(彦根市佐和山町)の初の発掘調査で、三成が城主だったころの武家屋敷の堀跡などが見つかり、滋賀県教育委員会が23日発表した。堀跡から、秀吉の好んだ「五三の桐」の紋様をかたどった紐(ひも)金具も出土。県教委は「秀吉が重臣を置いた要衝の城で、中近世城郭史を解明する上で貴重な足がかり」と話す。

 ■秀吉好み文様 紐金具も出土
 調査は今年4月から、佐和山の東北山すそ「奥ノ谷」の一部約2280平方メートルを発掘した。堀跡は、長さ約250メートル、幅2~3メートル。谷筋の南側に沿うように東西に直線状に伸び、20~30メートルごとに谷筋北側に屈曲、「コ」の字型を示す。
 城郭周囲の武家屋敷は堀で区画される例が多く、今回の発掘はその実例といえる。堀跡の辺りは、江戸後期の「佐和山城絵図」(重要文化財、彦根城博物館所蔵)にも「侍屋敷」と記されている。
 紐金具は手箱の蓋などの閉じ紐を掛けるもので、縦5センチ、横3・7センチ。「五三の桐」の紋の彫り方、花や葉のバランスが桃山時代の特徴と一致する。この紋は秀吉が好み、重臣などに使用を許した。
 堀跡から、大阪城築城開始(1583年)以後の瓦、珍しい陶磁器も出土し、県教委は「石田家の上中級の家臣が住んだ屋敷の一部」と判断した。

【佐和山城】 
戦国時代に近江の六角氏と浅井氏が争奪を繰り広げ、織田信長も攻略した。石田三成の入城は1590年で、1600年に関ケ原の戦いで三成が敗北して3日後、落城した。徳川家康の家臣・井伊直政が城主となり、彦根城築城に伴って1604年に廃城となった。

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雨模様の予報ながら、午前の部には熱心な350人を超える参加者(見学者)が来場集結。
よく考えてみると、1600年日本が真っ二つに割れた日の一方の雄の居城として全国的にも有名な上に、ほとんど遺構が残っていない城跡ながら、名城100選でも上位の人気を誇る佐和山城が、未だ一度も発掘調査がされなかった事も不思議といえば不思議であり、彦根市民として大いに反省しなくてはなりません。

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今回の調査は、遺跡が農地ほ場整備事業により影響を受ける部分2281㎡を対象されており。奥ノ谷と呼ばれる谷筋にあたり、大手土塁の北に位置し、東側を土塁に塞がれた谷地形を形成している。

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台形の形をした山城として理想の姿を見せる天守の手前に、この写真では白い車があるところの送電線に沿って内堀がある。彦根市文化財課のT氏によると、「おそらく小野川(外堀)までは武家屋敷が並び、その外に街道筋(中仙道鳥居本宿)まで城下町が広がり、一番外に足軽屋敷が町を守るように配置されていたようだ」と説明されていました。
今では全く想像できない本格的で大きな城下町に支えられた、理想的な総構えの立派なお城だったと想像されます。

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今回の調査地に向かう改修された見事な土塁と共に見られる内堀。この先から城内となり侍屋敷、奥ノ谷、馬冷池、三の丸へと続く

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余りの人数の多さに2班に分けられ、いくつかの土塁を見ながら調査地に向かう。

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今回のハイライト!石田三成の時代とおもわれる新たに見つかった第2調査地区の佐和山城遺跡遺構図

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今回の調査地は第一と第二に分かれていましたが、ナント第一調査区は石田時代は全く使用された形跡がないと説明されています。第一調査区は三成以前の支配者(織田氏、六角氏、浅井氏等)が使用していたと推定され、三成が新たに選んだ奥ノ谷は面積も広く、地盤が固い地域である。当時としては難工事だったはずだが、見事に堀などを作り込んでいると高く評価されていました。

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この地は水が湧きやすく排水対策として石組遺構、屋敷地を囲む溝と堀が綿密に計画され配置されている。

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直径50センチの柱穴が2箇所検出され、20センチの柱の根元が見事に残っている。この門につながり橋状遺構もあり、ここから繋がる嶋左近が詰めたといわれる三の丸を経て多くの石田家家臣が登城したのではないかと想像できます。

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南側の山裾に沿って幅3m位の堀が東・西の北端で屈折し設けられている。20Mから30Mの単位で屋敷地の区画を示している。

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手箱(化粧箱)に使用されたと思われる五三の桐紋の金具や五輪塔、鉄砲弾、門柱や橋の遺構は、400年前の物とは思えないほどきれいな形で残っており当時の隆盛が伝わります。
この地区の堀は佐和山破城時に全て埋められた形跡があります。たとえば石ばかりの堀もあり、山に残った墓石なども混ざっているとお話され、悲しい運命を辿った名城の悲劇も伝わってきました。
また一番多く出土している土器類(瓦、鉢、碗)のなかでも瀬戸焼が数多く見られ、現在は関西とのつながりが強いこの地ながら、当時は美濃、三河といった中部方面との交流が盛んであったとみられる。
変わったところでは連歯下駄と差歯下駄が出土していますが、その大きさから女性の物と感じていたところ、立派な男性用だと説明され、現在と当時の体格の違いを再確認するところです。
このように数多くの遺物が出土している事から、三成に過ぎたる城と呼ばれた謎だらけの佐和山城の姿が、おぼろげながら定説どおりの名城として垣間見えた画期的な発掘調査だと感じています。しかし残念ながらこの地の遺構の殆どは農地ほ場整備としてこの後、元の農地として戻される運命なのです。
もう少しあと少しだけでも、400年の時を超えたかけがえのない夢とロマンを壊さずに残して欲しいと思うのは、私だけなんでしょうか・・・・

※出土遺物は7/28(火)~8/2(日)まで安土城考古博物館で特別展示されます。
  ロビー展示なので入場料ナシで入れる所に展示される見込です。

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by machinoeki | 2009-07-26 19:27 | お知らせ(NEWS)
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